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史蹟と文学の町
2011/10/18
斉藤さん家のお米
風光明媚な九十九里町には、
作家を魅了する何かがあるに違いありません。日本有数の文学者がこの地を訪れています。
 
高村光太郎「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑 高村光太郎とは
 真亀川河口に近い国民宿舎サンライズ九十九里の裏手に「智恵子抄」の一節、”九十九里の初夏”を記した詩碑があります。
詩人で高村光太郎の妻、智恵子は九十九里浜松林内の「田村別荘」に昭和9年5月 から昭和9年12月に病気療養していました。光太郎は病気の妻をいたわり、目の前に広がる九十九里の大海原や松林、 砂浜の道なき散歩道を散策しました。 九十九里浜には毎週末、妻を気遣いながら、いとおしく見守る光太郎の姿がありました。
渚で無心に千鳥と遊ぶ智恵子の様子を光太郎は、詩「千鳥と遊ぶ智恵子」で「人っ子ひとり居ない 九十九里の砂浜の  砂にすわって智恵子は遊ぶ・・・・・」と詠んだのです。
 
竹久夢二「宵待草(よいまちぐさ)」詩碑・白鳥省吾筆 竹久夢二とは
待てど暮せど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ こよひは月も出ぬそうな (夢のふるさと----宵待草) 大正時代に美人画で一世を風靡した竹久夢二が絵入り小唄集で発表した詩「宵待草」を刻んだ碑が、片貝漁港に近い作田川河口の道路沿いにあります。昭和41年(1966)9月に建立されました。大正時代のロマンを感じられる碑です。
詩碑は風格があり、碑の表には『宵待草』の詩が、白鳥省吾の筆で刻まれ、碑の裏には、『涼しき土地』一節が刻まれています。
※宵待草とは九十九里一帯に夏の夕方に開花するオオマツヨイグサ・アレチマツヨイグサ・ツキミソウなど。一般的には「月見草」とも呼ばれる花のことです。
  
 
徳富蘆花(とくとみ ろか)「新春」文学碑 徳富蘆花とは
 
豊海海岸の波乗り道路沿いにあります。 「不如帰(ほととぎす)」などで知られている文豪、徳富蘆花の随筆の碑です。
 
 
歴史
 
伊能忠敬出生の地(記念公園) 伊能忠敬とは
 伊能忠敬は九十九里町に生まれた江戸後期の著名な地理学者・測量家。我が国最初の実測地図「大日本沿海輿地全図」を作製した人物です。
延享2年(1745)2月11日、上総国山辺郡小関村(現在の九十九里町小関)の小関家に生まれました。
現在、九十九里町小関には、昭和11年に建立された「伊能忠敬先生出生之地」という碑がありますが、この文字は文学者徳富蘆花(とくとみろか)の兄である徳富蘇峰(とくとみそほう)の揮ごうによるものです。また伊能忠敬誕生250周年の年に、九十九里町では町制施行40周年にあたり、記念事業の一環として小関の生家跡に銅像を建立、周囲約1600平方メートルの公園として整備しました。
 
真忠組志士の碑 真忠組とは
「四民平等・貧民救済」を旗印に九十九里一帯を騒然とさせた真忠組の幕末の騒動の志士の碑。作田川河口の道路沿いにあります。
1863年(文久三年)12月12日、楠音次郎らは『真忠組』を名のり、小関新開(現・九十九里町)に本拠地を置き 攘夷をスローガンに、豪農・村役人層から金銭・米・武器を徴発するとともに、窮民に対する救貧活動をおこないました。
幕末維新の騒動の一つです。
  
 
目黒自琢墓碑(妙覚寺)
 幕末の優れた儒学者であった目黒自琢は江戸から離れ、この地で多くの門人を教育しました。
妙覚寺は、伊能忠敬がその幼少年期を同寺住職の教育を受けて過ごしたといわれています。また徳川中期の折衷学派の太田錦城学系の西山翰海、長沼祐達、目黒自琢、藤代季園など、同寺を基盤として孔孟儒学を講じました。 また医薬を施して広くこの地方の文化に貢献し、その後も幾多の有能な人材を輩出したお寺です。
 
関東地方甘藷栽培発祥の地碑(青木昆陽) 青木昆陽とは
青木昆陽は、享保二十年(1735年)、九十九里町と花見川区幕張町で関東地方で初めてサツマイモの試作に成功し、当時貧困にあえいでいた農民を飢えから救いました。九十九里町役場 旧豊海出張所前に記念碑があります。